脱稿 つぎつぎと、次のスタンダードを。

大型連休が終わりました。遊んだ人も仕事だった人もご苦労様です。立夏も過ぎたし、これから夏に向けてまっしぐらです。
連休に入る前に庭をリフォームしました。古くなったウッドデッキを取り壊して新しく作り変え、ワンコに優しいウッドチップを敷き詰めました。庭が一気に明るくなりました。と言うか、通り越して眩しいです(笑)
連休中にやったトークショー。桜井さんとのツーショットを博多のダヴィンチがレコードジャケット風に加工してくれました。うはぁ、昭和感、丸出しですな…苦笑
それもそのはず、50歳となりました。スターウォーズの日です。だから、ケーキ食べながら「ローグワン」。当然の選択でしょう。頑張ってる自分へのご褒美は、山脇さん原型、韮沢さんデザインのゴジラキット。素晴らしい…。いつになるかは分かりませんが、キット完成させます。

今月は「天神4」脱稿の約束月。一気にラストスパート掛けていきまっしょい!


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脱稿にひとこと言いたい

 時代が明治になってから、目まぐるしく世の中が変わったが、それまでの太陰暦(天保暦、太陰太陽暦、旧暦)が太陽暦(新暦)になったのも、その一つ。1872(明治5)年11月9日、参議の大隈重信が、突如、詔書をもって太陽暦を採用することを布告したそうだ。同年12月3日を、1873(明治6)年1月1日とした。したがって、明治5年の12月は、2日までで終わり、同時に、太陰暦もそれでお終い。翌日の明治6年元旦からは太陽暦となった。

 

  なぜ、突然改暦をしたのかと云うと、日本の太陰暦では、欧米諸国が用いている太陽暦と合わないため、外交上も通商上も不具合を生じて、不便なためと云うが、これでは、突然改暦をした説明にはならない。これは表向きの話で、大隈伯昔日譚(大隈重信談)によると、旧幕府時代には、官吏の俸給が年俸制だったから、閏年でも問題なかったが、維新後は月給制になったため、閏年には一か月余分の出費が必要となった。

 

 

 

 当時の政府にはそのための財政的余力がなかったところに、明治六年に閏月があることが分かった。太陰太陽暦では、調整のため、約3年に一度閏月を設けなければならなかった。つまり、約3年に一度、1年が13か月になる年が巡ってくる。このため「此閏月を除き以て財政の困難を済はんには、断然暦制を変更するの外なし」との結論に至ったと語っている。当時、政府の財政的最終責任を負っていた参議大隈の言だけに、この財政上の問題から改暦を断行したとの説明は説得力がある。

 

太陰暦から太陽暦への改暦。新暦を導入すれば閏月はなくなり12か月分の支給で済むし、その上、明治5年は、12月が2日しかないので、官吏の月給は、年間11か月分の給料で済む。さらに当時は、1と6のつく日は休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となっていたそうだ。しかも、新暦の導入を機に「週休制」に改めると,休業日を年間50日余りに減らすことができると云う訳だ。まるでペテンのような話だが、実際に明治政府がやったんだから、驚くほかない。

 

 

 1872(明治5)11月9日に、太陽暦への改暦の詔書が発せられたと云うが、この11月9日は勿論旧暦の太陰暦で、新暦の太陽暦に当てはめると、明治5年12月9日になるのだそうだが、それにしたって正月を迎えるまでに23日しかない。テレビもラジオもインターネットもない時代だから、庶民が改暦を知る手立ては新聞しかない。しかし、当時、最大発行部数を誇っていた東京日日新聞(現毎日新聞)ですら、数千部程度と云うから、日本中が大混乱に陥ったことだろう。

 

 福沢諭吉は、太陽暦の採用に大賛成なものの、政府のやり方に大いに不満を抱き、明治6年1月に「改暦弁(かいれきべん)」を出版した。福沢曰く、「暦の変更は一大事件である。改暦を断行するには国民にその理由を知らしめ、新旧の暦の差異を丁寧に繰り返し説明して、納得させる必要がある。ところが政府は、簡単な改暦の布告と詔書を一方的に下すのみで、国民は詳細を知ることができない。そのような事情を役人は心に留めず、また説明もしない。そこで、民間人の自分が改暦を説明して政府の事業を助けようと思いついた」

 

 

  福沢は、改暦の布告・勅書が下されたころ、風邪を引いて寝ていたそうだが、改暦に係る政府の対応に対し、メラメラと闘志の炎が燃え上がったんだろうな。朝から昼にかけて、わずか6時間で脱稿したそうで、この「改暦弁」は、新旧暦の比較を中心に、曜日や月の英語名や時計の見方まで記載されていたと云うが、売れに売れ、10万部も売り上げたそうだ。

 

 

 それにしても、商売をしている人たちは、年末商戦の準備をする暇もなく、大迷惑を蒙ったに違いない。こうした混乱の中でももっとも困惑し、迷惑したのが暦を販売していた頒暦業者(当時、暦は、許可を受けた頒暦業者しか販売できなかった)だった。改暦を断行した政府は、何故か頒暦業者には事前に何の情報も与えていなかったと云うから、業者たちは何も知らずに、旧暦のままの明治6年の暦を作り終え、これを販売していた。それがいきなり、新暦採用となったもんだから、返品の山で倒産する人も出た。

 

 日本人が作りあげてきた四季折々の慣習や行事は、旧暦と深い関係にあるようだ。例えば、新年の賀詞といえば、「迎春」や「新春」だが、1月1日は冬至から1週間ほどしか経っておらず、冬真っ只中なのに何故に春なのかといつも思っていた。旧暦の1月1日は、立春に一番近い新月の日で、年によって変動するそうだが、立春を過ぎていれば、ああ、もうすぐ春だなと云う気分になり、「迎春」、「新春」は納得できるんだけどね。赤穂浪士の討ち入りの日は、元禄15年12月14日が、忠臣蔵を描いた錦絵などは、皆雪景色だ。いくら江戸時代とは云え、12月14日にあんなに積雪があるかと思っていたら、新暦では、翌年の1月30日になると云う。やっぱり雪が積もっていたのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 あああ・・・ワシ、癖になってしまったかもしれない・・・。

 

 

 

 

     無無明人